赤津焼は全国で初めて「釉(うわぐすり)」をかけた陶器を焼きました。
平安時代(900年代後半)に草木の灰を使った灰釉(かいゆう)から始まり、鎌倉時代には鉄分を多く含ませた鉄釉(てつゆう)、灰釉に使われる草木の灰(土灰)と鉄分を多く含んだ鬼板を調合した古瀬戸釉(こせとゆう)、黄瀬戸釉(きぜとゆう)などが出現。
織田信長、豊臣秀吉の安土・桃山時代(1500年中ごろ)の茶の湯の発展とともに、武士に好まれたと言う白さを求め、長石を用いた志野釉(しのゆう)、灰釉に酸化銅を含ませて青緑色に発色させる織部釉(おりべうゆう)が多く焼かれるようになりました。そして江戸時代(1600年頃)には、既に使われていた黄瀬戸釉(きぜとゆう)、御深井釉(おふけゆう)を含めた7つの釉薬が確立され、尾張徳川家の御用窯として現在に受け継がれています。